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顔淵(がんえん)、仁(じん)を問う。子曰く、己れに克ち、礼に復(か)えるを仁と為す。一日(いちじつ)、己れに克ちて礼に復えらば、天下仁に帰せん。仁を為すは己れに由(よ)る、而(しこう)して人に由らんや。顔淵曰く、其の目(もく)を請い問う。子曰く、非礼は視る勿(なか)れ、非礼は聴く勿れ、非礼は言う勿れ、非礼には動く勿れ。顔淵曰く、回(かい)、不敏なりと雖(いえど)も、請う、斯(こ)の語を事とせん。

  弟子のなかでも真面目で何事にも真摯な、そして師からも一目置かれている顔淵が日ごろから思っていた疑問を単刀直入に問いました。

「先生のお考えの根もとは、よくおっしゃる『仁』だと私は思うのですが、ですが、その肝心の『仁』っていったいどお言ったものなのでしょうか。今まで、先生のお話をお伺いして、一人で熟考し同胞とも対話し、いろいろ行動してそれらしきものは何なのだろうと探ってはいるのですが、そうすればするほどますます曖昧模糊として手のひらからすり抜けその肝を掴み切れません。どうか『仁』とは何か、私にお教えください。」

師はしばらくじっとして何か思案している様子でしたけれど、すぐに話し始めました。

「そうですか。それは心の内側、内面の事ではなく話し方と所作の事です。心のざわめきに惑わされず話し方、所作が正しければそれでいいのです。自分の心に溺れず、形を正しく。」

顔淵にはそれではよくわからない様でした。

「もう少し具体的に教えてください。」

師はまたすぐに答えました。

「正しくない行い、正しくない話し合い、正しくない所作からは距離を置きなさい」

顔淵は師のことばに答えました。

「まだよくわかりません。でも、先生のお話しで少しヒントらしきものを得られた様に思います。これからはそれを糧に少しづつ精進していきます。」

 

 

私もこの「仁」という言葉と時々、まあ、年に一回か二回ですが向き合います。でも、たぶんこの言葉の意味は、孔子という先生と何人かの弟子、そしてその集団の行く先々での環境や他の人々との交流の中で育まれた考え、行動、会話の総称だと思えます。

ですから、たぶんそれは孔子の考え行動からだけで生まれた概念ではなくて、幾人かで共有された(たぶんそれは先人達の知恵も含めた)大きな共同体で生まれ、その核となるものとして孔子がすくい上げたのかもしれません。